長洲町史を読む! 第3回 「長洲・清里・腹赤・六栄」

これは、長洲町の歴史をまとめた書「長洲町史」を紐解き、僕らの暮らす長洲町が過去どのようなこのようなアレだったのかと、思いをはせるナニカである。

 つまり、長洲町史に記された歴史的エピソードやなんやかやを紹介してみよう!というコーナーです。
 基本的に行き当たりばったりで目についたところから行く予定です。
 なお、長洲町史については、長洲町図書館に蔵書してありますので、自分で読みたくなったら図書館のご利用をおすすめいたします。

第3回 「長洲・清里・腹赤・六栄」

 長洲町に住んでる方には、「何?小学校の話かな?」と、思っちゃいますよネ?
ここでは4校区の話でなくて、名前の由来等について、少しご紹介したいと思います。

前回の「長洲町50周年」と同じような内容になりますが・・・まぁ、しょんなかたいッ

長洲 古くは、「長渚」「千鳥ヶ浜」「泣洲の浜」等と呼ばれていたらしい・・・
結局、『地形がである』ことから"長洲"となったのです。


1160年(永暦元年)、扇崎より三人の開拓僧が移り住んだのが始まりといわれています。
1829年(文政12年)長洲港の開港によって、人口が増加。
1831年(天保2年)に長洲上町、長洲下町に分かれましたが、1876年(明治9年)に合併し、長洲町となったのです。
清里 1889年(明治22年)梅田村・高浜村・牛水村・水野村が合併し清里村に・・・
名前の由来は『小野、牛水に清水が湧き出るであった』ことから"清里"になりました。

前回も触れたように、現在は分村しておりますので、
お隣の荒尾市にも清里の地名は存在するのです。
腹赤 古文書には「原賀」「原加」 一字で「魚宣」とも。
読み方は「はらあか」でなく、「はらか」が正しいのでが、「風土記」にも出てくる地名なのです。

景行天皇へ漁師が「にべ」の魚を献上したのですが、
その後、「腹赤の贄」が宮中の正月の節会に献上されることになったらしいのです。
六栄 宮崎村向野村(現宮野)と永方村塩屋村(現永塩)と折地村赤崎村(現折崎)。
1889年(明治22年)、「つの村が合併してえるように」と、"六栄村"となったのでした。


当初は「むさかえむら」、後に「ろくえいむら」と呼ばれるようになったのです。

しかし・・・分かり易い名前である・・・。

内野康弘

さて、次回はどんな話題でしょうか?

ながすどっとねっと!

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